!張本勲コラム 「打者の一番の商売道具。バットに正解はないがそれぞれに意図がある」, 【1980年】特大本塁打で決めた!張本勲、前人未到の3000安打達成/プロ野球回顧録 『スプレー打法を駆使して』, 張本勲コラム「得意のセーフティーバントで消えたシーズン4割と達成したシーズン最高打率」 - 野球, http://baseballstats2011.jp/archives/36039976.html, 張本勲氏が強攻に主張する「走り込み至上主義」 野球選手に必要だと思うか聞いてみると…, 大船渡・佐々木“登板回避”問題で場外乱闘! 張本氏「ケガするのは選手の宿命」 ダル「このコーナー消して」, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=張本勲&oldid=81713067, 1952年は最高打撃賞、1953年から1963年は首位打者賞、1964年から1979年は打撃賞。1979年限りで廃止。, 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更, シーズン打率.350以上を両リーグで記録(東映=1970年、1972年 巨人=1976年)※史上唯一。, シーズン打率3割以上:16回(1960年 - 1962年、1964年、1966年 - 1974年、1976年 - 1978年)※日本記録。, シーズン打率.330以上:11回(1961年、1962年、1966年 - 1970年、1972年、1974年、1976年、1977年)※日本記録。, シーズン150安打以上:9回(1961年、1962年、1964年、1969年 - 1972年、1976年、1977年)※歴代2位タイ。, シーズン20本塁打以上:16回(1961年 - 1973年、1976年 - 1978年)※歴代3位タイ。, 打撃ベストテン入り:17回(1960年 - 1974年、1976年、1977年)※日本タイ記録。, 20年連続シーズン100安打以上(1959年 - 1978年)※20年以上連続でシーズン100安打を記録しているのは, 初安打・初打点:1959年4月11日、対阪急ブレーブス2回戦(駒澤野球場)、1回裏に, 1000得点:1972年7月16日、対ロッテオリオンズ16回戦(東京スタジアム)、8回表に, 2000安打:1972年8月19日、対西鉄ライオンズ20回戦(平和台球場)、4回表に, 350本塁打:1972年9月8日、対ロッテオリオンズ24回戦(後楽園球場)、8回裏に, 3500塁打:1973年4月22日、対近鉄バファローズ1回戦(日生球場)、9回表に, 300二塁打:1974年4月24日、対近鉄バファローズ前期2回戦(後楽園球場)、1回裏に, 2000試合出場:1974年8月29日、対太平洋クラブライオンズ後期8回戦(明治神宮野球場)、4番・左翼手で先発出場 ※史上9人目, 400本塁打:1975年4月20日、対ロッテオリオンズ前期5回戦(川崎球場)、7回表に, 300盗塁:1975年4月27日、対阪急ブレーブス前期7回戦(阪急西宮球場)、6回表に二盗(投手:, 2500試合出場:1978年9月28日、対広島東洋カープ26回戦(後楽園球場)、5番・左翼手で先発出場 ※史上3人目, 5000塁打:1980年4月30日、対西武ライオンズ前期6回戦(宮城球場)、1回裏に東尾修から右前安打 ※史上3人目, 3000安打:1980年5月28日、対阪急ブレーブス前期11回戦(川崎球場)、6回裏に, 1500得点:1980年9月5日、対阪急ブレーブス後期8回戦(阪急西宮球場)、5回表に, 500本塁打:1980年9月28日、対近鉄バファローズ後期10回戦(川崎球場)、1回裏に偵察要員・, 通算打率3割・3000本安打以上・500本塁打・300盗塁 ※史上唯一(世界史上では, 『勇気をもってぶつかれ:生きる技術・闘う技術とは』(日本経営指導センター、1983年7月), 『最強打撃力:バットマンは数字で人格が決まる』(ベースボール・マガジン社、2008年9月), 『イチロー論:一流とはなにか プロフェッショナルとはなにか』(青志社、2009年9月), 『張本勲 もう一つの人生:被爆者として、人として』(新日本出版社、2010年5月), 『ネバー・ギブアップ:負けてたまるか!張本勲物語』(許英万著、鈴木福男訳、みくに書房、1990年2月、, 鉄(くろがね) 極道・高山登久太郎の軌跡(2004年) - 二代目稲原会会長 岩井隆臣, 『週刊ベースボール』プロ野球全選手写真名鑑(2009年版のみ解説者・評論家名鑑は未掲載), 『別冊宝島 プロ野球選手データ名鑑』(2010年版以降にテレビ・ラジオ解説者一覧を掲載), プロ野球人名事典2003(2003年4月25日、日外アソシエーツ発行・紀伊國屋書店発売。編著者:森岡浩。コード:. ã£ã«ãªãã§ã¯ã®å
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å ±ããã¡ã³ã®ã¿ãªãã¾ã«æä¾ã ⦠ãã£ãããæ°ã«ãªããã¥ã¼ã¹ãããã«ãã²ã¨ããªï¼ããã¥ã¼ã¹ããããããã解説ããã©ããããæ©ããâä»æ¥âãä¼ãã¾ãã 全員そこに並べ!」と整列させ、鉄拳を見舞ったが、大杉だけは「お前はあっちにいっとれ」と制裁を避けたほど、大杉を可愛がっていた[102]。張本は大杉の死後、「永い付き合いだった。もう兄弟のように。これほど純粋で素朴なホームランバッターは過去にいませんでしたね。それと、新聞記者泣かせなんですよね。だいたい8回裏9回表は勝負が決まるんですよね、だから流れをみて原稿を書いちゃうんですよね。そこへ同点2ラン逆転3ランばっかり彼(大杉)はやるもんですから、原稿を洗いざらいしなくちゃならない。だから新聞記者泣かせの勝負強いバッターだったですね。」と振り返っている[103]。, 大豊は1992年秋から打法改造に取り込んだが、それを勧めたのが張本だった。大豊には尊敬する王貞治と同じように体が突っ込む癖があったため、それを修正するのに一本足打法が向くと判断したからだったという。, 当初、大豊は張本を信用しなかったが、張本は大豊と共に悩み、行き詰ったら王に電話してアドバイスを求めるなどして信頼関係を作り、打法改造に取り組んだ。, 大豊は打法改造に成功し、1994年には本塁打王と打点王の二冠王を獲得している[104][105]。, 張本はプロ入り前はもとより、幼少期から在日韓国人を隠さずに名乗っており、引退後も日本に帰化していない。そればかりでなく、帰化ならびに日本国籍取得の意思のないことを公言している(国籍は大韓民国)。これは、日本に渡って来て死ぬまで日本語を覚えようとしなかった母親の影響が大きいためであった[106]。現代では、自らを在日韓国人と明かす者が増えてきているが、張本の時代に始めから出自を公表した人間は極めて稀である[10]。その一方で、2004年のアテネオリンピックに出場する野球日本代表の選手たちに対して「日本の国威を背負っていると思って欲しい」と語っていた。, 民族教育は受けなかったが、家庭内では幼い頃から韓国語で育ち、韓国語にも堪能である。1991年に日本で行われた第1回日韓野球スーパーゲームの中継では、韓国テレビ局側の野球解説者として出演した。, 同胞のプロレスラー・力道山は張本を可愛がり[79]、力道山が東京にいる時はいつもついて回った[107]。初めて力道山の邸宅に招かれ、六十畳ほどある居間で飲んでいると、力道山はお手伝いを帰してドアに鍵をかけた。ラジオのつまみを回すと韓国の放送が流れてきて、力道山は軽音楽に合わせて機嫌よく踊り始めた。出自を伏せていた力道山から韓国人[注 15]だと告げられると、張本は「噂は本当だったんだ」と嬉しくなり、高揚した気分で「韓国人なら韓国人と言えば良いじゃないですか」と口に出した[107]。すると力道山は「お前は植民地時代の苦労をろくに知らないから、そんなことが言えるんだ! ã§ãã¼ç¹å¥è£ä½å®ã å¨æ¥éå½äººäºä¸ã§ãããæ¬åã¯å¼µ å²ï¼èªã¿ããªï¼ãã£ã³ã»ãã³ããã³ã°ã«ï¼ ì¥í ï¼ ã éæ¥æ¬ãã ãã¡ã¤ã¿ã¼ãºï¼ã»ããã¹ã»ããã¬ã¹çãå½å
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¨å½ã«æ¾éï¼ã¹ãã¼ãè¦ããªãcsã¹ãã¼ããã£ã³ãã«gaoraï¼ 張本 勲(はりもと いさお、1940年6月19日 - )は、広島県広島市出身の元プロ野球選手(外野手)、野球解説者・野球評論家、日本プロ野球名球会会員、韓国野球委員会(KBO)コミッショナー特別補佐官。在日韓国人二世であり、本名は張 勲(読みがな:チャン・フン、ハングル:장훈)[1][2][注 1]。, 日本プロ野球初の3000安打達成者[3]で、通算安打の日本記録保持者(3085本)。またNPB唯一の500本塁打300盗塁達成者。さらに史上最多の16度のシーズン打率3割、史上最長の9年連続打率3割の記録保持者。NPBで最多タイ記録となる首位打者を7回獲得。パ・リーグ最多記録となる最高出塁数(現在の最高出塁率)を9回獲得している。またパ・リーグ初の最多出塁数を獲得している。, 両親は韓国慶尚南道昌寧郡大合面出身[5][6][7]。1939年、母親は40歳前に身重のまま、兄と2人の姉を連れて当時日本領だった朝鮮から海を越えて内地に渡り、広島で勲を生んだ[1][2][8][9]。一家は六畳一間のトタン屋根のバラックに住んだ[10][11]。4歳の冬、サツマイモを焼くために、土手でとんど[12]を囲んでいた際に、急にバックしてきたトラックを避けようとしたところバランスを崩してしまい、とんどに右半身から飛び込む形になり、右手の親指、ひとさし指、中指以外の自由を失う大火傷を負う[5][13][14][15]。, 1945年8月6日、5歳の夏、爆心地から約2kmの広島市段原新町(現在の南区段原)で被爆[1][14][16][17]。比治山の影となっていた段原は直接の熱線が届かなかったが、爆風に見舞われ家は倒壊した[2]。張本は赤い閃光を見た直後に意識を失い、意識が戻った後に記憶しているのは、張本をかばって覆いかぶさり、ガラスの破片で出血していた母の血の赤い色だった。その直後に避難場所で経験した人肉の焼ける強烈な臭い、叫声を上げながら猿猴川に飛び込み亡くなっていく人々、夜通し続くうめき声を、今でも忘れることはないという[2][5][12]。学徒勤労動員で比治山の西側にいた、当時14歳だった長女の点子は、大火傷を負い数日後に亡くなった[1][17]。点子の最後を看取った張本によれば、担架で運ばれた点子は全身にやけどをしていた。「『熱いよう、熱いよう。』母の懐でうめく点子にブドウを一房もぎ、口元で搾ってあげた。『ありがとう。』消えそうな声が最期だった」と語っている[18]。, 終戦後、父親が朝鮮半島に戻り、生活基盤を整えてから一家も呼び寄せることになっていたが、父親が帰国後急死し、またヤミ船が下関沖で転覆した事件を受けて、母親が子供3人の身を案じて帰国を諦めることになった[1]。母親は広島駅前の闇市で牛や豚の臓物を仕入れて自宅で大工や工員相手にホルモン焼き屋を始めた[2][5][8][19]。, 子供の時から体が大きく、ガキ大将としていつも大勢の子分を連れて歩いた[14]。広島市立比治山小学校5年のときに町内の野球チーム(同世代のチームではなく、社会人が趣味で集まっていたチーム)に誘われたのをきっかけに野球を始める[20]。当初は右投げ左打ちだったが、右手の怪我の影響で変化球を投げづらかった(鷲掴みにしか出来ない)ことから、サウスポーに転向[13][20]。利き手を変える大改造を行なった。, 水泳が一番得意だったが、進学した段原中学校には水泳部がなく、仕方なく野球部に入部[12][20]。段原中時代の2年生のときにレギュラーになり、エースで4番打者として広島県大会で優勝した[6]。中学時代は野球とケンカに明け暮れ、姉を騙したヤクザを半殺しにしたこともあったという[14]。『仁義なき戦い』のモデルになったような人たちにも憧れ、「あのまま広島にいたらヤクザになっていたと思う」とも話している[21][22][23]。, この頃、広島カープの当時の本拠地・広島総合球場の場外の木によじのぼり、よく試合の無料見物をしていたという[1][24][25]。その折に覗き見た読売ジャイアンツの宿舎の食事風景が、その後の張本の人生を大きく変えることとなった[1][2][12][14]。戦後の物資不足や飢餓をまだ引きずる時代に、選手たちは分厚い肉を食べ、桐箱に入った贈答品として当時は珍重されることも多かった生卵を3つも4つも茶碗に放り込んでいたのである[9][26]。以来、張本のプロ野球選手への憧れは増大し、「トタン屋根の長屋から抜け出すにはこれしかない」[26]、「母親に広い家をプレゼントする」、「美味しい食べ物を腹一杯食べる」という夢を胸に来る日も来る日も自宅近くの猿猴川土手に吊るした古タイヤに向かってバットを振り続け、野球へと打ち込んでいった[10][26][注 2]。, 甲子園出場を夢に、地元の強豪・広島商業、広陵高校への入学を希望したが、素行不良との理由で叶わず[1][9][27]、野球では全く無名の松本商業高校(現・瀬戸内高校)定時制に進学[14][28]。入学後1か月ケンカしなかったら普通科に転入させるという約束での入学であった[29]。昼間は学生食堂で働き、夜は学業に勤しんだため、野球をする時間が全く取れず、甲子園出場の夢を叶えられそうにないことを悟る[9]。松本商業の野球部監督が「いっそ広島から出したらどうだ。あの子は化けるよ」と兄にアドバイスし[9]、自身も理髪店で「常勝!平安、浪商」と書かれた雑誌を見て、まず京都の平安高校に問い合わせたが、途中からは無理と断られる[9]。その後に大阪の浪華商業高校(浪商高等学校を経て現・大体大浪商)野球部に梁川郁雄と一緒に売り込みに行き、同校に転校した[9][30]。タクシー運転手の兄が月給2万3,000円から月1万円を仕送りしてくれた[11]。, 浪商では1年の終わり頃に4番になるが、張本が入部する前の部内の暴力事件で1年間の対外試合禁止処分(1年の秋から2年の秋)を受け[14]、この際に恩師である中島春雄も監督の座を退くことになった。, 1957年、2年の初夏に中島春雄の戦友であり、度々同校を訪ねていた当時読売ジャイアンツ監督の水原茂に、高校を中退して左投手としての入団を勧誘される[6][9]。張本もその気でいたが、高校だけは卒業して欲しいという兄の意向[注 3]により、誘いを断る[9]。その直後、オーバーワークにより肩を故障。投手としての未来図を描いていた張本は挫折するも、中島の説得によりその後は打者に専念するようになる。同年は秋季近畿大会で対外試合に初出場、県予選から13試合で打率5割6分、本塁打11本という驚異的な成績を残した。大会では準決勝に進み、海南高の宗邦夫に完封を喫するが、翌1958年春の選抜への出場を決める。ところが一般生徒が刑事事件を起こし、出場辞退を余儀なくされた。高校同期にエースの池上栄一郎(法大)、捕手の岡本凱孝がいた。, 3年時の1958年夏の甲子園府予選は決勝で寝屋川高に辛勝、念願の甲子園出場を果たす。しかし大会直前に部室内での暴力事件が発覚[9]。張本含む数人の休部処分により、チームの甲子園出場は認められた[5]。張本曰くこの件に関しては全くの濡れ衣であるという(事件が起きた際、そもそも部室にいなかった)[9]。張本は当時の野球部長の韓国人嫌いに端を発した差別としている[1]。また、前監督の中島が退任した後も引き続き中島に教えを乞いに行くことがあり、後任の竹内監督との関係も良くなかったと回想している[31]。, 同事件によって甲子園の夢を絶たれ、自殺も考えるほどのショックを受けたが[13]、野球部の同級生で同じく休部処分を受けた山本集[注 4]が親身になって張本の相談に乗り、張本は話を聞いてもらっている内に涙が出てきて母校のグラウンドで夜通し走っていたという。, この年、在日韓国人高校生で構成する日韓親善高校野球の選手に選抜されて渡韓し、生まれて初めて「祖国の土」を踏む[6][1]。主軸打者として韓国各地を転戦、選抜チームも14勝1敗と圧勝した[9]。張本のバッティングは祖国の野球ファンも驚かせ、韓国メディアも大きく報道した[32]。その一方で観衆からパンチョッパリと侮蔑表現で呼ばれ、アウェーであることも実感したという。ここで甲子園出場が叶わず萎えかけていた気持ちを奮い起こした。後年、張本はこのときのことを「甲子園に出場出来なかった事は凄く悲しく悔しかった。でも一時的に日本を離れ、試合を重ねる内に野球に集中できた。それが良かったんです。生きる気力が湧いてきて、心機一転した上で日本に戻り、一からやり直す事が出来たんです」と語っている。後に日本のプロ野球を代表する強打者となる張本は、母国訪問での活躍によって祖国でも有名になり、韓国の野球少年にとって憧れの存在となる[32]。, 中日ドラゴンズと東映フライヤーズの一騎討ちになり、交渉事を任していた兄も「スカウト部長が立派な人だし、ここに預かってもらえば大丈夫なのでは」として中日を推していたが[33]、東京への憧れもあり、1959年に東映フライヤーズに入団[34]。当時の東映は同郷の先輩である岩本義行を始め[9][35]、母校である浪商の先輩を多数抱えており[9][30]、岩本が監督を務めていたことも入団の決め手の一つになった[33]。契約金は200万であった(中日は600万を提示していた)[9]。当時の大卒初任給の平均額は1万3,800円[11]。張本の家や部屋には、まだテレビがなくセ・リーグの方が人気があるとは知らなかったため、「わかっていたら中日に入団していたと思う」と話している[9]。なお、この入団と前後して東映の社長で球団オーナーの大川博は当時プロ野球の規約で「外国人選手は2人まで」となっていた問題の改正に取り組み、「生まれた時に日本の国籍を持っていた選手」は外国人選手に含めないと改正させている。契約金200万で母親のために広島に念願の一軒家を建てた[2][8][11]。若いころ、仲のいい王貞治をこの家に招いたこともある[8][11]。, 松木謙治郎打撃コーチの「打率も残せて、ホームランも打て、盗塁もできる完璧な打者を目指せ」(つまり長距離砲としてよりも、打率を残せる中距離打者として育てる方針とした[36])という指導のもと、猛練習に励んだ。松木の回想によると(後述の怪我により)右手をほとんど使えず、ほぼ左手のみのバッティングで、高めの直球しか打てないバッターだったため、右手の強化や打撃フォームや立ち位置の細かい修正(この際にレベルスイングになった)に臨んだ。今では常識となっている野球ネットへのヒッティング練習を導入。また高校時代は投手としての練習しかしていなかったため、野手としての練習は苛烈を極めた。当初は張本の長身と風貌から一塁手として育てる予定だったが、打撃練習の際に怪我のことを初めて知り、即日外野手に回したという。こういった経緯から、張本は松木のことを「大恩人」だとしている[36]。, 大川博オーナーの意向もあって1軍に抜擢され、高卒の新人外野手ながら開幕戦のスタメンに名を連ねた[注 5]。デビュー戦は阪急戦で、米田哲也の剛速球に全くついていけず三振、直後の守備でバンザイをして即交代させられた。翌日の阪急戦で第1打席で秋本祐作から二塁打を打ち初ヒット、第2打席で石井茂雄から初本塁打を放つ。6月23日からは4番を打つ。入団1年目からレギュラーに定着し、高卒新人で二桁本塁打の13本塁打を放つなど活躍して新人王を獲得した。, 2年目には打率3割をマークし、3年目の1961年には打率.336で21歳にして首位打者となった。, 4年目の1962年は本塁打、打点ともに野村克也に次ぐリーグ2位を記録。広島で行われたオールスターゲーム第2戦では親族一同を招待し大活躍、MVPに輝き、故郷に錦を飾った[11]。チームのリーグ初優勝に貢献し、リーグMVPと、同年から新設された最高出塁率を獲得した。同年の阪神タイガースとの日本シリーズでは全7試合に4番打者として出場。第6戦で太田紘一から2点本塁打を放つなど26打数12安打と活躍し、チーム日本一の原動力としてシリーズ技能賞を獲得した。, 1963年には自己最高となる33本塁打・41盗塁を記録する。1967年から1970年にかけては4年連続首位打者を獲得した。, 1970年、打率.383、本塁打34本、打点100という自己最高の成績を残す。このうち打率は大下弘が持っていたシーズン最高打率(.3831)を3毛更新するもので、1986年にランディ・バースが更新するまで16年間日本記録であった。, 1972年8月19日の西鉄ライオンズ戦で、東尾修から史上7人目となる2000本安打を達成。1974年には通算7回目となる首位打者に輝いた。首位打者7度はイチローと並ぶ日本記録である。「安打製造機」の異名を取り[3][注 6]、南海ホークスの野村克也らと共に1960年代から1970年代のパ・リーグで活躍した。, 日拓ホームフライヤーズとなった1973年の後期[注 7]からは、選手兼任でコーチ(ヘッド兼打撃コーチ)を務めた[37]。コーチになった理由は後期から監督になった土橋正幸に「おまえは兼任でヘッドコーチをやれ。選手をまとめろ。2、3年でバトンタッチするから」と言われたためであった。しかし球団は翌1974年に日本ハムに身売り、土橋は退団した[38]。この頃から毎年、ストーブリーグを賑わせた[39]。1974年には大洋とトレード話がほぼまとまりかけながら、この年のオフに大洋監督に就任した秋山登が、大洋が主力の遊撃手を放出しようとしていたことで「とんでもない」と強い難色を示したことで御破算となる[40]。1975年前期リーグ終了後には、ロッテが張本獲得に乗り出す。日本ハムの三原脩球団社長が「張本は球界のガンだ」と発言するなど[41]、張本を無理やり放出しようとし、三原社長と中西太監督との間の感情はこじれにこじれた。日本ハム製品が韓国でよく売れていたため、大社義規オーナーとしても“韓国の英雄”である張本の気持ちを無下にはできず、新任の大沢啓二監督も日本ハムから出たい張本の気持ちを変えることはできなかった[注 8]。, 前年のオフに大杉勝男・白仁天らが移籍し、張本はこの時について「日本ハムに身売りになって、三原さんが社長になって、娘婿の中西さんが監督になって、土橋さんも球団から去って。チームもバラバラ。みんなチームからいなくなって。自分もチームから出ないと行けないと思った」と述べている[42]。張本が「もし不要なら出してほしい」と直訴すると、三原に「希望する球団に行かせよう」と言われ、強さへの憧れからファンでもあった巨人を挙げた。また、張本は当時阪神タイガース監督の吉田義男に誘われて一時は阪神行きを決意し、家まで用意していたという[43]。しかし突然巨人からも誘われ、しかも決定項として扱われていたため[44]、慌てて吉田に連絡を取ると、吉田は憎まれ口ひとつ言わず「ええ話やないか。巨人に行けよ」と了承した[45]。現在でも吉田とは「あの時、ウチ(阪神)へ来とったら面白かったなあ」という話になるという[34][46][47][48][49]。, 1975年シーズン終了後、長嶋茂雄監督が「王の前に大砲が欲しい」と希望し[41]、11月25日高橋一三・富田勝との交換トレードで巨人へ移籍[50][51]。憧れであった巨人に入団したことで発奮し、オフやキャンプで徹底した走り込みを敢行した。1976年は自己最高の安打数を更新し、翌1977年と続けて高打率を残して2年連続でリーグ2位の打率を記録。1976年においては、首位打者を獲得した谷沢健一との打率差がわずか1毛(厳密には6糸)で、歴代で最も1位と2位との差が小さい記録である。親友の王貞治と組んだOH砲は、第一期長嶋茂雄監督時代の2度のリーグ優勝に貢献した。, 1978年には日本記録となる通算16回目のシーズン打率3割を記録。同年7月24日、日本プロ野球名球会が設立され、規定(昭和[52] 生まれ、通算2000本安打記録)を満たす張本も入会している。翌1979年は左目の疾患で夏場に40試合ほど欠場[53]、77試合の出場に終わり、打率.263、8本塁打と低迷して戦力構想からも外れた。, 1980年1月5日、オーナーの重光武雄の強い誘いと3000安打を達成したかった張本の意向もあり[54]、ロッテ・オリオンズに移籍。同年5月28日、地元川崎球場での阪急ブレーブスとの対戦において、山口高志投手から日本プロ野球史上初となる通算3000本安打を本塁打で達成。この快挙を記念したメモリアルプレートが同球場に展示された。9月28日には川崎球場でのダブルヘッダーの第1試合、近鉄との対戦において、日本プロ野球史上3人目となる通算500号本塁打を達成した[55]。, 翌年の1981年に現役引退。現役最後の安打は森繁和から打っている。背番号はプロ1年目から引退まで一貫して10を着用した。そのままロッテの監督に昇格の話もあったが、実現はしなかった[56]。, 通算打率は歴代3位(4000打数以上)であり、7000打数以上では歴代1位である。通算打撃部門の全ての上位に名を連ねていることから、日本プロ野球史上屈指の強打者との誉れが高い。通算安打は3085本で日本記録である[注 9]。自身も通算最多安打を記録していることを誇りに思っており、「イチローがたとえ日米通算4000本安打を記録しても、日本記録保持者は私ですから」とコメントしているが、その理由として、「メジャーリーグの野球は日本の野球よりもシーズンの試合数が多いから、イチローの通算安打は参考記録にしかならない」ことをあげている。なお、張本はイチロー自体を認めていないわけではなく、イチローが記録を更新する際などは度々アメリカまで行って祝福している。, 引退後は、1982年より東京放送(TBSテレビ・TBSラジオ)[注 10]野球解説者、スポーツニッポン野球評論家を務める。また、2000年頃よりTBSテレビの『サンデーモーニング』のスポーツコーナー『週刊 御意見番』に大沢啓二(2010年10月死去)と共にコメンテーター(御意見番)としてレギュラー出演。2006年まではテレビ・ラジオの中継にも出演していたが、2007年以降は「週刊 御意見番」への出演に絞る。中継から外れて以降も、各出版社が発売している一部プロ野球名鑑に掲載される解説者・評論家名鑑[57] では、引き続きTBS解説者として掲載されている(2012年からは一部名鑑[58] でフリー解説者として扱われている)ほか、『サンデーモーニング』公式サイト内同コーナー情報ページでは「TBS野球解説者」と明記されている[4]。, 2001年にスタートしたプロ野球マスターズリーグでは、東京ドリームスに選手兼任コーチとして所属し、試合にも出場している。中々ヒットが打てなかったが、2005年に5年越しの初安打を放った。もっとも本人は「(投手の)星野伸之(元オリックス)が手加減してくれた」とコメントしている。, 臨時コーチを何度も務めている。中日の沖縄秋季キャンプの臨時コーチを務めた1992年には、一旦挫折しかけた大豊泰昭の一本足打法を完成させるきっかけを作っている[59]。1993年春季キャンプで監督の長嶋茂雄の要請で巨人臨時打撃コーチを務め、松井秀喜に「すり足打法」を指導したが、松井は頑として張本のすり足打法を受け入れず、自分のスタイルを貫き通し、張本は打撃コーチの中畑清に「全く聞かない」と嘆いていた[60]。自身の著書で、監督の打診を受けたことがあったものの「入り込んでしまうからやめた方がいい」と母親に猛反対されたので断ったと記している[37]。ロッテのゼネラル・マネージャーだった時期の広岡達朗から、ボビー・バレンタイン監督の下でのヘッド兼打撃コーチの打診を受けたことがあったが、張本がトップ(監督)でやりたいと言って断っている[37]。週刊文春の連載「阿川佐和子のこの人に会いたい」に登場した際(2015年10月1日号)は、球団は言えないが3球団から監督の要請があったことを明かしている。, 1982年に発足した韓国プロ野球統括団体である、KBOのコミッショナー特別補佐官を2005年まで務めた[61][62][63]。2007年、民間人に与えられる韓国最高の勲章である国民勲章第1等の「無窮花章」が授与された[2][64][65]。韓国プロ野球創設の際の組織作り・人材派遣などの支援等、日韓のスポーツ界並びに在日韓国人社会の発展に貢献した功績によるものだった[5]。「無窮花章」は日本の勲一等にあたる[64]。日本のスポーツ選手として、韓国の勲章を受けた唯一の人物となる。, 韓国の野球発展にも多大な功績を残し[1]、1982年から始まった韓国プロ野球は、李容一初代事務総長、李虎憲同次長、張本の3人で立ち上げたものという[66]。張本は「わたしにとって日本プロ野球は『育ての親』、逆に韓国プロ野球にとってわたしは『生みの親』になる」と語っている[66]。, バットを高く構えて捕手寄りに倒して始動し、水平に振り抜く独特の打法から、右へ左へと自在にボールを打ち分けた[67]。このため上記の「安打製造機」のほか、「広角打法」、「スプレー打法」、「扇打法」という代名詞でも知られた[68]。元パ・リーグ事務局長の村田繁は張本について、「広角打法の最高峰を極めた打撃王であると認定していい」と評している[69]。通算RCWIN傑出度では王貞治に次ぐ歴代2位の数値を記録するなど、打撃面においては歴代屈指の成績を残した。猛打賞も歴代1位の251回を記録している。, 東映入団1年目から20年連続シーズン100安打以上を放っており、打率3割以上を16回マークした。走塁面においては、1963年に41盗塁(広瀬叔功の45に次ぐ2位)したのを筆頭に、通算で319盗塁を記録している。通算500本塁打以上かつ通算300盗塁以上を記録しているのは張本のみである。, 現役時代は多くのシーズンで首位打者以外のタイトル争いにも絡み、毎年打撃部門で上位に位置していたが、本塁打王と打点王のタイトルは1度も獲得できなかった。通算1676打点は、打点王のタイトルを獲得していない選手の中では史上最多である。, 打席に立っている際、一塁ランナーが盗塁すると激怒した。 [要出典]一塁にランナーがいる場合、一塁手が一塁に張り付いた状態になるため一二塁間が広くなり、安打が出る確率が高くなるからだという。また、打席に入る時には凄んだ表情で相手投手に向けてバットを突き出す仕草を良くしていた。 [要出典]当時は投手を威嚇するためといわれていたが、後に本人は「あくまでも両サイドを見分けるための目安だった」と語っている。 [要出典], 現役時代に打撃のコツについて教えを乞いに行ったことがある。その相手は当時近鉄に在籍していたジャック・ブルームで、張本はブルームの外角打ちの上手さに感心し、外角打ちのコツを聞きに行った。それに対してブルームは、「外角を打つにはまず内角打ちが上手くなければいけない。それは、外角に的を絞っているときに内角にストレートが来ると絶対に手が出ないからだ。相手投手は、こっちが内角打ちが上手いと、内角に投げるのを嫌がって外角に投げてくる。そこを狙い打つのだ」と回答。その後、張本は首位打者の常連となっている。, また、張本はブルームからセーフティーバントのコツも教わった。それは「バックスイングをしてバントなんてしないように見せろ」というものだった[70]。これにより、張本自身の述懐によると21回試みたセーフティーバントのうち20回を成功させたという[70]。1970年に当時のシーズン最高打率記録を樹立した際にも、最後の打席でセーフティーバントを決めている。しかし当時のマスコミから「ホームランも打てるバッターがなぜバントで打率を稼ごうとするのか」という批判を受けて、多用はしなかった。そのことについて張本は、2003年のインタビューで「なぜこれ(セーフティーバント)を多用して4割打たなかったのかなぁと後悔してるんです」と述べている[71][70]。バントの上手さについては王貞治からも認められており[72]、2003年のキャンプでは川﨑宗則にセーフティーバントの指導をした。川崎は後年に「張本さんといえば『豪打』のイメージでしたが、あれでセーフティーバントの確率がぐっと上がった。僕のヒットの何本も、張本さんのおかげで打てたようなものです」と語っている[72]。, 打撃のコツについては、後年、バッターボックスでの構えについて「雨の日の立ち小便」(リラックスしながら腰を落とす)のように構えるとよい、と語ったこともある。現役時代、天才または運と呼ばれたことに対して、「ある日突然バッティングの才能が目覚めるなんてことは絶対ない。半狂乱になってバットを振って振って振りまくった人だけに打撃の極意というものは見えるんです」と語っている[73]。キャンプなどでも張本は布団の横にバットを置いていて、夜もたびたび起き上がって素振りをしていたという。山崎正之は張本とキャンプで相部屋になった際に、張本が毎夜寝ている自分の数十センチ上で素振りを繰り返すため、寝るに寝られず睡眠不足になり、「あれほど不気味な風の音を聞いたことはない」と振り返っている。, 主に打撃への負担が比較的少ない左翼を守った。打撃や走塁においては傑出した成績を残した張本だったが、守備は得意ではなく、とりわけ守備力が低下した巨人時代にはファンから「守っても安打製造機(=稚拙な守備により相手の安打を量産させている)」と揶揄されるほどお粗末なプレーが目立った。幼少時のヤケドの影響と高校時代の左肩の故障という二重苦により、現役中は一貫して思うような守備ができなかったという。右手を完全に開くことができなかったため、特注のグラブで守備を行っていた。, このようなハンディがありながらも、守備率を示すRF(刺殺+補殺+失策)÷試合数の数値では、1964〜1967年(24歳〜27歳時)に4年連続で2点以上(これは平均以上の数値であり、2.5を越えれば一流と言われる)を記録し、1959年(19歳時)の1.41から大幅に上昇させている[74]。, ただし、1975年にパリーグで導入されたDH制のため1年間守備が免除された後、巨人に移籍し左翼の守備に返り咲いた翌年の1976年以降は、守備力の衰えが顕著になる。例えば1966年(26歳時)には、外野部門(100試合以上出場)でRFが2.08(3位)、刺殺数233(4位)、補殺11(2位)、エラー1(2位)と高い数値を記録していたにもかかわらず、巨人に移籍した1976年(36歳時)にはRFが1.37(12位)、刺殺数167(9位)、補殺4(8位)、エラー7(13位)と、数値が大幅に下落している[74]。, 阪神との1962年の日本シリーズ第7戦(1点リードから同点に追い付かれた)では、10回裏にベンチに下げられ、その後の12回裏に日本一決定の瞬間を迎えるという経験をしている[注 11]。巨人時代には、レフトにライナーやゴロが飛ぶと、遊撃手の河埜和正がカバーに入ることが多かった。リードして迎えた試合終盤には、守備固めの二宮至と交代させられることが何度もあった。長嶋監督に失策の理由を聞かれた時には、「あれは空中イレギュラーです」と答えていたという。, 来歴の節で記したように、幼少期に大火傷を負っている。右手以外は完治したものの、右手のみに後遺症が残り、親指・人差し指は完全に伸びず、薬指と小指は癒着したままである。野球を本格的に始めてからは誰にも見せないようにしていた。プロ1年目のオフ後、母親と談笑しているときに「この指がまともだったら、もっと良い成績が残せるのになぁ」と呟いたところ、母親が号泣してしまった。まずいことを言ったと反省した張本はそれ以降、家族にも右手を晒さなくなった[13]。, NHKの番組で張本の右手を取り上げる企画が予定されたが、張本は拒否。その後、NHKの解説者を務めていた川上哲治にだけ、現役引退後の座談会で右手を見せた。川上は「よくもそんな手で…」と涙を流しながら絶句していたという[75]。, プロ野球出身者で直接の被爆により被爆者健康手帳を交付されたのは、張本と濃人渉の2人のみである[注 12]。, 被爆者であることを、ずっと隠していた[17]。思い出すのが怖くて野球に没頭し、バットを振り続けることで、当時の記憶を心の片隅に追いやってきたという。しかし2005年頃に「原爆の落ちた場所を知らない」とテレビ番組で発言した若者に怒りを覚え、被爆体験を語り始めるようになった[1][17]。2006年8月15日放送のテレビ朝日系『徹子の部屋』に出演した際には、被爆体験や幼少期の生活、母に対する思いなどを語った。それをきっかけとして「われわれの世代が戦争を、そして原爆でやられた体験を語り残さなければならんのです」と答えたという。その後は多くのメディアで被爆体験を話している[5][1][12]。, 2014年には、原爆で失った長姉の点子の写真を張本が長年探していることを知った点子の同級生から、張本のもとに点子の写真が届いている。69年ぶりに点子の顔を見た張本は大変喜び、この写真を寝室の枕元に置いて母の遺影と向き合うように飾っているという[76]。, ロッテへ移籍した1980年、当時の監督だった山内一弘や金田正一など多くの評論家が酷評した落合博満の特異な打撃フォームを「素晴らしい、このままのスイングで打てる」と絶賛していた。その後に落合は三冠王を3度獲得し、当時から張本は落合の非凡な才能を見抜いていたことが証明された形となった。後年、落合が三冠王を獲得した頃に自分の手について「柔らかいでしょう。とてもたくさん素振りしているような手ではないですよね」と語っていることに対して、張本は「あれは落合の謙遜。彼の手は本当にバットを振り込んだ手だ」と述べている。, 現役時代、毎日午前3時または4時頃に起きてバットを振り、引退するまで子どもとは別の部屋だったという。張本は「スポーツ選手で、豪気・豪快・強気の人が大成功した例は少ないです。やはり臆病で繊細で神経質な人のほうが成功する。イチロー、落合博満、長嶋茂雄、王貞治、金田正一も、みんなそういうタイプ。豪快に見えているだけで、陰では毎日こつこつ練習しています。豪気な人は、すぐできてしまう素質と力があるから『そんなもんすぐできるよ』と安心するし、油断するきらいがあるんですよ」と語っており、「我々みたいに小心者で臆病なやつは、不安だから毎日やる。その積み重ねが結局力になったんだろうと思いますね」と振り返っている。また、野球選手で一番大事なことは「自分を疑う」ことであり、例えその日に4打数4安打を記録したとしても、たまたまだと思って、常に自分を疑うことが大事だという旨のことを述べている[77]。, 非常に腕っぷしが強く、中学時代に練習場の奪い合いで、一級上のサッカー部のキャプテン相手に暴力沙汰を起こしたことがあり[1][78]、中学時代からヤクザのチンピラとケンカをしていたという[78]。現役時代には「野球はルールのあるケンカだ」と話す[79] など、気性が激しい一面があり、以下のような話がある。, 江本孟紀が入団1年目(1971年)のキャンプのフリーバッティングに登板した際、大杉勝男、白仁天に対して1球もストライクが入らなかった。江本は白に「バカヤロー、プロかお前」と怒鳴られ、投手コーチの土橋正幸からも怒られ、「次にストライクが入らなかったら辞めます」と言うつもりでいたところ、次の打者が張本だった。そのため足が震えたまま投球し、案の上ストライクにならなかったが、張本はストライクゾーンに入っていないボールを片手で打ち、その後も投げるボールを文句も言わずに当てて、そのうちに江本はストライクが入るようになったという[83]。阿川佐和子が「張本さんは江本さんを助けようとして?」と質問すると、江本は「それは本人には聞いてないです。どんなボールだって打てるぞっていうつもりだったのかも知れない。でも優しいところがある人だから。その件以降、僕はすぐ一軍に上がる事ができました」と述べており、プロに入ってからの恩人として土橋、野村克也と共に張本の名前を挙げている[83]。, 野村克也が用いた「ささやき戦術」に数々の打者が悩まされていた頃、野村は張本にも例外なくそれを行った。それに対し、試合で張本はわざと大きな空振りをして野村の頭をバットで殴った[85]。その後、野村は張本に対してささやき戦術を行うことはなくなった。これについて張本はサンデーモーニングで「私の現役時代にもね、一人いたんですよ。たちの悪いのが(野村克也)」「空振りのふりをしてバットでガツーンと叩いてやりましたら、もう二度と(ささやき戦術を)やらなくなりましたけどね。(野村は)殺されると思ったんでしょうね」とコメントしている。一方、野村は上記のいきさつを否定した上で、張本にささやき戦術をすると、張本が繊細すぎるためにバッターボックスでの立ち位置がなかなか定まらなくなり、結果的に試合時間がかかりすぎてしまうことから、張本へのささやき戦術をやめたとしている[86]。, かつて、「人気のセ」「実力のパ」と言われ[87]、オールスター戦で、「セ・リーグに負けるな」と本気で闘ったパ・リーグ選手の先頭に立っていたのは、張本であると野村克也は話している[88]。, 自身の著書の中で監督業について、「私も現役時代11人の監督に仕えていたからわかるが、確かにヘボ監督はいる。野球ほど監督の采配ひとつで戦況や勝敗が180度変わるものはないだろう」と述べ[89]、「現役時代名選手だったのに、指揮官になったとたん、動揺して信じられないような采配をする監督がいる。本名を出すのは憚れるので、ここではN監督としよう。こちらが一打逆転の場面なのに落ち着いてベンチから見ていられない。ベンチ裏に引っ込んで小窓から覗きながらマネージャーにカウントを確認し、ここで逆転できないとどうしようと不安でたまらず直視できない。監督がこんな状態ならベンチにいる選手も戦う気になれない」、「T監督は冷静さを欠いて4回に起用した代打を8回に再び起用しようとした」、「O監督は延長戦で右と左のバッターを呼んでじゃんけんさせた。じゃんけんで勝った方を代打で使うと決めていたようだ。たまたま左バッターが勝ってサヨナラヒットを打ったから言いようなものの。何をいわんやである」と名前は伏せているが、3人の監督を例に出している[90]。, 若い頃はゴルフを「止まったボールを打って穴に入れるだけの誰にでもできるスポーツ」と馬鹿にしており、さらに「打者がゴルフをやるとフォームが崩れる」という持論を持っていたが、日拓時代か日本ハム時代にオーナーに誘われて行うことがあった。巨人時代はゴルフに夢中であったがチームメイトにゴルフで中々勝てなかったので引退後に悔しさからゴルフの練習にのめり込み、解説者になった頃には玄人並の上手さになった[91]。, 退場処分を受けたことは1度もないが、東映時代の1964年3月26日の阪急戦の9回表、張本は牽制球で三本間に挟まれ本塁に突入した際、捕手の山下健に体当たりした[92]。この行為で足立光宏が「ひどいじゃないか」と言うと、張本は激高して足立を数回小突いた。ダリル・スペンサーが「ノープッシュ」と言うと、張本は岩下光一からバットを奪ってスペンサーを殴ろうとした。東映ナインがなだめ、一時はベンチに戻るも、またベンチからバットを持ち出してスペンサーにめがけて走り出し、これも寸前で止められ、大事には至らなかった[92]。この後、監督の水原茂に「バットを使うな、素手で行け」と言われたということで、張本はこのことを「野球選手の商売道具であるバットを武器にするなと言うことだったと思う」と回顧している[93]。, 日本ハム時代と巨人時代に、それぞれ1回ずつ警察の取り調べを受けたことがある。暴言とおぼしき発言をされたとして試合前に城之内邦雄(当時ロッテ)を殴った件と、1976年4月16日、宿舎に帰るために停まっていた巨人選手の乗ったバスが、試合中の判定トラブルから広島のファン500人に包囲された際、広島ファンが「張本に殴られた」と騒ぎ立てた件である[12][94]。この広島での事件は、張本がセ・リーグの巨人に移籍して最初の広島遠征だった日で、故郷に錦を飾っただけに母や兄も招待していた[10][95]。ところが故郷に錦を飾るどころか、張本は広島ファンに目の敵にされ、民族蔑視的なヤジを集中的に浴びた[10][95]。6-4と広島リードの9回表に巨人が1点を返し、なお二死一、二塁から山本功児がセンター前ヒットを放ち、同点と思われたが、山本浩二の好返球と水沼四郎の好ブロックで二塁ランナー土井正三が本塁タッチアウトになった[94]。微妙な判定に長嶋監督以下、コーチ陣、巨人ナインが本塁上の審判に詰め寄り猛抗議を繰り広げた[94][95]。それに怒った広島ファンがグラウンドに飛び出し長嶋監督に殴りかかろうとした[94]。これは張本と原田治明、黒江透修コーチらがブロックし事なきを得たが、広島ファン500人が巨人の帰りのバスを取り囲んだ[94]。広島ファンは口々に「張本あやまれ!」と連呼。広島出身の張本が宿敵・巨人に移籍したのを快く思わないファンも多く、また前年球団創立初のリーグ優勝を果たした広島だったが、この年は開幕ダッシュに失敗し、この試合まで5敗2分けと低迷し、広島ファンのフラストレーションが溜まっていた[94]。張本が特に標的にされ、帰りのバスに乗り込む際に暴漢が張本を襲った[12]。相手を避けるために張本が手で払いのけたとき、後輩選手がバットで暴漢をコンと叩いたら頭が割れて血が出た。すると周囲のファンが「張本にやられた」と騒ぎ始めた[10][94]。張本は傷害容疑で事情聴取されたが自分をかばってくれた選手の名を明かさなかった[12]。母や兄も現場をしっかり見ていたため「やったのは自分じゃないとなぜ言わないのか」と責めたが「私を助けようとした後輩の名前はいえない」と頑なに話さなかった[10]。後に暴漢が槌田誠に頭を叩かれる場面を偶然撮影した写真が出て張本の嫌疑は晴れた[10][96]。しかし疑われたときに出た山のような報道に比べると真実を伝える記事はごく僅かだった。この事件で張本が最もショックを受けたのは民団の幹部が「やったんなら、手錠をかけて刑務所へ連れていけ」と発言したことだったという[10]。, プライベートでは傷害罪で現行犯逮捕されている。1965年7月9日の午後10時、港区榎坂町4の溜池通りで車を運転していた張本がタクシーとぶつかりそうになり、張本はタクシーを蹴り上げて出てきた運転手に暴行を加えて1週間のけがを負わせた。後続車の飲食業の男性2人が仲裁に入ったが、張本はこの2人も殴って1週間のけがを負わせて検挙された。張本自身は相手の帽子を張っただけで手は出していないと話している[97]。この年、張本はオールスターゲームを辞退している。, 現役時代は他チームの選手とは口をきかないようにしていた。特に投手に対しては、少しでも隙を見せないようにとその思いを強くしていたという。張本本人はこのことを「『仲良き事は美しきかな』では勝てない」としている。そして、稲尾和久、杉浦忠ら他チームに所属していた先輩たちと話をしたのは引退した後だったという[98]。, プロの同期であり同学年、互いに出自を日本以外の国に持ち、巨人時代にはともにクリーンアップも形成した王貞治とは、プロ入り当初からの親友同士である。新人の頃は、張本の広島の実家に王が泊まったこともある[39]。, 実績を残し始め、やや慢心が見えていた1963年のオールスターゲームでの打撃練習で、王が張本とは明らかにレベルの違う打球を連発していた。張本はその打球を見て「何を俺は一流打者面をして甘ったれていたんだ」と改心したという[99]。。王が長年の低迷を乗り越え、監督として福岡ダイエーホークスを悲願の初優勝に導いた際には、「今までワンちゃん(王貞治)を馬鹿にしてきた奴は、皆坊主になって謝れ」と言い放った。また、雑誌の企画などで「プロ野球最強打者は?」という質問には、いつも王を挙げる程彼の実力を認めている。, 1979年オフ、網膜の病気で視野が狭くなり成績が落ちたため[注 13]、ロッテへの放出が内定していた。ところが巨人軍の納会の席で、それまで一回もフロントに意見したことのなかった王が、当時オーナーの正力亨に「張本君に巨人で3000本安打を達成させてあげてください」と張本の巨人残留を必死に直訴した。この王の発言に正力は「王君どうしたんだ?酔っているのか?」と驚いたが、王は「いえオーナー、私は酔っていません、お願いです」と迫った。張本は思いがけない展開に感動のあまり、泣きながらそれを止めたという。後年「それ以降、ワンちゃん(王貞治)に対しては、どんなことがあっても絶対服従と誓った」と語っている。さらに、2009年のワールド・ベースボール・クラシック監督には王しかいない、と主張し[注 14]、王に対しても「(胃癌手術を終えた王に)何かあったら、私があんたの面倒を一生見るから」とまで伝えたという。, メジャーリーグベースボールやギネスブックに対し、王が放った868本の本塁打記録を正式な世界記録として認定するようにテレビ出演時に度々訴えている。, 東映時代に大杉勝男とクリーンナップを組んだ。大杉は境遇が似て出身が近かったこともあり、よくかわいがった[100]。張本はテスト生だった大杉の打撃を見て、「こいつは三冠王を取る」と断言し、後日「大杉に感じた才能は、後の落合博満にも感じたものと共通した」と打ち明けるほど、当時の打撃コーチ・藤村富美男と同じく、いち早く大杉の才能を見出した一人でもある[100][101]。, 東映時代、宿舎でメンバーがプロレスごっこで遊んでいる時、目付け役の張本が「お前ら何をしとる!